【1151】読了☆ドーン
積読していた本の中から、やっと取り出してきた。
久しぶりの勉強や調べ物でもない、純粋な読書。
私は、文学作品は、スロー読書主義。
特に、彼の作品は、超超超スロー読書で読んでいる気がする。
しかし。。。この小説は、まあホントにいろんなテーマが織り込んであって、それらが複雑に絡み合っていて、それがまた分人主義を浮き彫りにしているように感じた。
『空白を満たしなさい』も数年前に読んだけれども、先にこっちを読んでおいてもよかったかもしれないなあ。
【分人主義って、精神分裂症みたい!】って言われたことがあるけれども、本人が分人主義なんていう意識が有るか無いかに関わらず、私達は、様々な分人をその瞬間ごとに生きていると思うなぁ。
まぁ、確かに分人主義なんて考える必要性がないほうが、幸せなのかもしれない。
ちょっと、、、アニミズムと類似しているとこもあるかもしれない。
分人主義もアニミズムも、どちらも、別に迷妄的なわけじゃなくて、むしろclearだと思うなあ。
決して、万々歳のハッピーエンドではないのだけれども、登場人物たちと共に読書という旅を通して、様々な思考分析を体験した。その過程で、自分自身の分析と整理も進み、心が軽くなり、希望が見えてきた気がした。
端的に表現するなら、この本の一説の言葉を借りて、「一つの悲しみの記憶が、私の生の奥深くに沈んでいった」というのが、読んだ後の感想として一番しっくりくる。
ー私(グレイソン・ネイラー)の理解では、ディヴィジュアリズムという言葉は、社会学上の分析の道具という以上のものではありません。(中略)
身のまわりに、多様な考えの人間がいればいるほど、それに対応する自分も多様でなければならない。ーそんなに難しい話でしょうか?
もちろん、時には、ディヴィジュアルの整理も必要です。その考えで救われる人も、随分と多いのですよ。虐待されたり、イジメられたり、過酷な職場で鬱病になったり。・・・彼らはそうした自分の過去のディヴィジュアルを、悪しき関係の産物と見なして、排除する自由を得たのです。過去はひとつではない。ディヴィジュアルごとに過去があって、それを今の自分を形作っているディヴィジュアルの輪に入れたくなければ、リンクを外せばいいのです。
人間の体はひとつしかないし、それは分けようがないけど、実際には、接する相手次第で、僕たちには色んな自分がいる。(中略)・・・相手とうまくやろうと思えば、どうしても変わってこざるを得ない。その現象を、個人individualが、分人化dividualizeされるって言うんだ。で、そのそれぞれの僕(アストー)が分人dividual。個人は、だから、分人の集合なんだよ。ーそういう考え方を分人主義dividualismって呼んでる。
ディヴは、キャラみたいに操作的operativeじゃなくて、向かい合った相手との協同的cooperativeなものだって言われてるんだよ。あと、キャラと違うのは、人がいなくてもいいってこと。(中略)関わる人だとか、関わる物事だとかがあって、初めて分化する。自分の中のある一面で、そういう分人が、中心もなくネットワーク化されているのが個人だっていう考え方だよ。本当の自分なんてない代わりに、色んな自分をずっと駆け巡りながらものを考えてるっていう発想なんだ。
多重人格は、人格が分裂する際に相手が存在しないでしょう?誰かがいて、その人とコミュニケーションを取りたいから、分人化するっていうのとは違って、自分で勝手に分裂しちゃうから、やっぱり区別されてる。(中略)ディヴはだから、いつも相手とワンセットなんだ。ーただ、説は分かれてるみたい。多重人格だって、想像上の誰かに向けて分裂してるんだとも考えられるから。それより、多重人格は、人格と人格がリンクされてないでしょう?ディヴィジュアルはもちろん、そんなことはないから、そこが違いかな。
人間は、ディヴをそれなりにたくさん抱えて、色んな自分を生きることでバランスが取れているんだと思う。その相手がいないと、行き場を失ったディヴは、過去の記憶や未来の想像の中にばかり溢れ返ってしまう。
人間は、他者の分人しか分からないことになってる。個人は永遠に不可知だって。
誰も自分の中のすべてのディヴィジュアルに満足することなど出来ない。しかし、一つでも満更でもないディヴィジュアルがあれば、それを足場にして生きていくことが出来るはずだ。
本の中に出てきたジョシュア・レッドマンとブラッド・メルドーってどれなんだろうな。。。
本の後半は、Lyle MaysのClose to Homeが脳内再生されてたwww